校長ブログ

2020年10月29日

南三陸町での忘れることのできないお話②

西條さんたちが公団住宅への避難をためらっていたのは、その建物が公民館
よりもさらに海沿いに建っていたということもあったようです。津波がまさ
にくるという時に、海から離れるのではなく、海に向かって行くということ
になるからです。しかし、時間の経過とともに他の選択肢は考えられない状
態になっていました。
急いで建物の屋上まで駆け上がってまもなく、これまでに見たこともないよ
うな津波が海から押し寄せ、防波堤を軽々と越えて町中になだれ込んできま
した。西條さんたちは、町の中の建物が次々と海に飲み込まれていく様子を
呆然と屋上から見ていたそうです。
やがて海面はみるみるうちに、公団住宅全体を飲み込み、足下にもひたひた
と迫ってきました。すぐに足下は飲み込まれ、膝下までが波に飲み込まれて
いきます。隣にいたクラブの先輩の顔を見ると、真っ青になっていました。
この時、西條さんは「死」を意識したそうです。周りは海のようになってい
て、あと数メートル海面が上昇すれば、もはや逃げ場はなく、屋上に避難し
た全員が飲み込まれてしまうからです。
しかし海面は膝上まで上昇したあと、ゆっくりと引いていきました。この時
の恐怖は今でも忘れられないと言われてました。
それから波が引いていくまで、夜通し避難したみんなで励まし合って、その
公団住宅の階段で一晩を過ごしたそうです。時は3月。当然ながらトレーニ
ングウェアだけのクラブ員たちは、相当な寒さを堪え忍ばなければなりませ
んでした。

 

南三陸町観光協会発行のリーフレットによると、地震の揺れによる被害は比
較的小規模だった一方で、津波による被害が甚大で、死者は620名、行方不
明者は221名、家屋全半壊は3,321棟に及んだということです。あらためて大
変な規模の震災だったんだと認識させられました。

 

今、南三陸町は復興に向けての歩みを続けています。私たちが訪れるほんの
すこし前に、震災復興記念公園が完成。さんさん商店街と公園を結ぶ橋(オ
リンピックメインスタジアムを設計された隈研吾さんの設計)も開通したと
ころで、私たちはその橋を渡って、祈念公園の丘で献花をさせていただきま
した。
あらためて南三陸町の観光協会の皆さま、西條さん、貴重なお話をありがと
うございました。
福力